中央集権への歩み


 5世紀の半ばすぎ、朝鮮半島では高句麗の勢いが強く、百済・新羅を圧迫していた。しかし6世紀にはいると、百済・新羅はそれぞれ政治制度をととのえて勢いを強め、南方の伽耶諸国は562年までにつぎつぎに百済・新羅の支配下に入った。
大和政権は、伽耶諸国に持っていた勢力の拠点を失ったが、なお百済などをつうじて大陸文化とのつながりを保った。
 この間、大和政権は6世紀初めに起こった筑紫国造磐井の乱をしずめ、屯倉や名代の部を各地におくなどして、地方に対する支配を強めていった
それとともに、大和政権をつくっていた中央の豪族たちも、多くの土地・農民を支配して勢いを強めるようになり、豪族同士の対立が激しくなった。
6世紀初めの継体天皇の朝廷で、政治を指導した大伴氏は、朝鮮半島に対する政策の失敗によってやがて勢力を失い、6世紀中ごろの欽明天皇のときには大連の物部氏と、あらたに勢いを強めてきた大臣の蘇我氏とが対立するようになった。当時、中央では品部の組織をととのえ、政治機構を充実しようとする動きが進んでいたが、蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権をんぎり、政治機構をととのえる動きを積極的に進めた。



推古朝の政治


 中国では、北朝からおこった隋によって589年、南北朝が統一された。隋は国内の政治制度をととのえるとともに、高句麗に出兵するなど、周辺にも勢いをのばした。このため、東アジアの情勢には大きな変化がおこった。
朝廷では587年、蘇我馬子が物部守屋をほろぼして政権を独占し、さらに592年には、対立していた崇峻天皇をも暗殺した。このような政情の危機に当たって女帝として即位した推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子を摂政とし、国政を担当させた。
太子は大臣の蘇我馬子と強力し、内外の動きに対応して国政の改革にあたることになった。
推古天皇の朝廷では、603年に冠位十二階の制が定められた。冠位は姓とはことなり、才能や功績に応じて個人にあたえられるもので、しだいに昇進することができた。
これはのちの位階の制の起源をなすもので、役人としての性格を強めてきた豪族一人一人の、朝廷内における地位をはっきりさせるのに役立った。
 また、604年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族達に、国家の役人として政務にあたるうえでの心構えを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した。
 また、太子は馬子とともに、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂したという。これらの政策は、いずれも豪族を官僚として組織し、国家の形をととのえることをめざしたものであった。



隋との交渉

 倭の五王時代以後、大和政権は中国との交渉を行わなかったが、東アジアの情勢が大きく変化したのにともない、今までの外交方針を転換し、隋と国交をひらくことになった。
607年には小野妹子が遣隋使として中国にわたり、隋の皇帝煬帝はこれに対し、翌年、国使 裴世清をつかわした。隋との交渉では、その国書にしめされるように、倭の五王時代とはことなり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。
遣隋使には、高向玄理・南淵請安・僧旻など、多くの留学生・学問僧をしたがった。長期の滞在をおえて帰国した彼らの新知識はのちの大化の改新にはじまる国政改革に、大きな役割をはたした。